日夜、“つながり”を実感。家族への「ありがとう」を大切に。
1963年、兵庫県・淡路島生まれ。神戸の高校卒業後は、東海大学海洋学部海洋土木工学科に進みました。
入学時に考えたことは「4年間完全燃焼する!」。そうした学生生活を送る中、多くの知識、技術とともに、今も海を舞台に活躍する、生涯の友、仲間を得ることができました。一方で、3年生の研修航海の際、「つなぐ」という言葉の重み、意味の深さを知る、印象的な体験をします。
1200tの研修船がシケに遭遇。錨を下ろし、嵐が通り過ぎるのを待っていると、一等航海士が私たち学生の部屋を訪れました。「今、船は海底の錨とチェーンでつながれ、波風に耐えている。錨は重要。しかし、チェーンも大切。社会に出てキミたちは、チェーンの輪になる。ひとつひとつ、人と人がしっかりつながっていないと、錨や船がどんなに立派でも、遭難する。切れない、強い“つながり”を大切にして欲しい」
海の仕事に関わる心構え、“覚悟”のようなものを教えられた気がしました。
卒業後の1985年、関海事に入社し、最初の2年間は横浜の会社に出向。「つながり」「覚悟」という言葉を胸に刻み、「社会人たるもの」を学びました。その後、関海事に戻り、30歳を過ぎた頃からは、経営にも携わります。しかし、今から考えると「ゆでガエル」状態。業績について何の疑問も持たず、経営上の問題点の洗い出しなどには、考えすら及ばない。「順調なんで、このままでいいんやろう…」。ボンヤリそう思っていると、いつの間にやら売り上げは右肩下がり。先の見えない状況で旧経営陣から副社長に指名され、経営のバトンを渡されたのです。入社17年目の2002年。39歳になっていました。
その年の決算は最悪。なんと敷設工事ゼロ。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。2004年に社長に就任後、まさに“必死のパッチ”であらゆる改革を断行し、所有船舶の大改造を決断。2006年にDPS搭載船「あわじ」をデビューさせます。捨て身の“覚悟”で、一歩踏み出した瞬間です。その後、順調に業績を伸ばし、2015年頃から、洋上風力発電マーケットへの参入を視野に入れた設備投資を重ねます。そして2021年、日本初の商用洋上風力発電(秋田/能代33基)の送電用海底ケーブル建設工事に参戦。さまざまな役割、多くの仲間たちとの“つながり”を日夜、実感しながら、無事故・無災害で成し遂げました。
そしてそこには、挑戦した者だけが見ることのできる“新しい景色”が、確かにありました。
Since 1906 — 海底ケーブル工事の関海事
私たちは、オンリーワンの価値“関海事の海底力”というテーマを打ち出しています。その原動力になるのは従業員一人ひとりの力。それを支えていただいている家族がいてこそ、思う存分、その力を発揮できるということも忘れてはいけません。
お客様、取引先にも、家族にも、魔法の言葉「ありがとう」を。
その先に、チーム関海事、私たちの“ハッピー”がある。私は、そう信じています。
- 1963年1月16日生まれ/創業者、関 仲之助から数えて4代目/父、関 護の後を受け、現在、代表取締役社長
- 地元の小中学校から神戸の育英高等学校に入学/硬式テニス部の選手として活躍/東海大学では洋弓部に所属
- 趣味は読書、歴史探訪/宝物は家族/捨て身の覚悟を示す「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」を座右の銘とする
- 野球好きで、大の阪神ファン/タイガースが初めて日本一に輝いた年、1985年に関海事工業所に入社。それから38年、還暦を迎えた2023年。2度目の阪神タイガース日本一に涙する。